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故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
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まあ、これは調べないといけないと、易に聞きました。

火沢ケイ の5 6 爻

http://uqmk.blog106.fc2.com/blog-category-43.html

上記文抜粋
・・・・・・・
睽 兌下離上(だか りじょう)

八卦のsdataku-n.gif兌(だ)の上に、rika-n.gif離(り)を重ねた形。

睽とは背くという意。
この卦は離火が上に在り、兌沢が下に在るが、火は上に燃え上がり、沢を流れる水は低い方へ向かう。
したがって、両者が目指す方向は逆であり、背いていることになる。
だから睽と名付けられた。
また、離火が上にあり、兌水が下にあれば、水と火は交わらず、これも両者が背いていることになる。
交わるとは、相互に作用を及ぼし合うということであって、火の上に水をかければ火は消え、水を入れた鍋を火の上に置けば中の水は温まる、ということである。
しかしこの卦のように、火が上で水が下だと、例えば水の上に火を近づけても何も変化がないように、両者は何も作用を及ぼし合わないのである。
だから両者は背いているとして、睽と名付けられた。

なお、火を上にして水を下にするのは、火水未済も同じだが、火水未済は離火と坎水という正対の卦の組み合わせであり、この火沢睽は離火と兌水で正対の組み合わせではない。
正対とは、表裏の関係にある卦のことで、坎水の裏卦は離火だが、兌水の裏卦は艮山である。
正対であれば、その情は互いに通じるものがあるが、正対でなければ、その情は疎かにして背くものである。
したがって、坎水と離火の場合は、たとえ交わらなくても互いに背くまでのことはないのである。
これに対し、この卦は兌水と離卦という正対ではない組み合わせだから、交わり感じるところがなく、両者が相対するれば、その情は必ず背くのである。
だから睽となづけられた。

また、この卦は離の中女が上に在り、兌の少女が下に居る形でもあり、これは二女同居の様子である。
しかし、二女が同じく父母の家に生育するとしても、何れは別々のところへ嫁ぐことになる。
したがって、その思うところもまた同じではなく、背くことになる。
だから睽と名付けられた。
また、易位生卦法によれば、もとは沢火革から来たものとする。
沢火革の離が下から動いて上がり、兌水が上から動いて下ったのが、この火沢睽である。
これは、これまでは互いに行く方向が向き合っていたのが、その方向へ行ってしまったばかりに、あとは背き離れてしまうしかない状態になった様子である。
だから睽と名付けられた。

ところで、「そむく」という意の字は、背く、乖く、などもあるが、何故、他ではあまり使われることのない睽が用いられたのだろうか。
これは、睽の字が、この卦の形を表現しているからである、というか、この卦の形から睽は作られた字なのである。
睽は、目と癸の組み合わせである。
上卦の離は火であるとともに人体では目に配される。
背くことを反目するというように、目は背くことを表現する重要なポイントである。
一方、下卦の兌は、「はかる」という意味を持つとともに、兌沢に水が流れることから、水を意味する弟分の卦である。
弟分というからには、兄がいるわけだが、それは言うまでもなく坎水である。
十干で水を意味するのは、壬(みずのえ=水の兄)と癸(みずのと=水の弟)であり、壬癸はともに北方に位置する。
北は、君子南面のときの背中が向いている方角である。
だから背の字には「そむく」という意味があるのだが、その北を指す十干の壬癸のうち、癸という字には、兌が持つ「はかる」という意味もある。
そこで、上卦の離から引き出した目と下卦兌から引き出した癸を並べたのが、この睽なのである。

卦辞
睽、小事吉、

睽は、小事(しょうじ)には吉(きち)、

何かをやろうとするときは、まず人の和を大事にしないといけない。
しかしこの卦は、背き離れる様子である。
これでは、大事を成すことは無理である。
また、内卦の兌を悦ぶとし自分とし、外卦の離を麗(つ)くとして相手とすれば、自分が悦んで明らかな相手に麗く様子である。
自分は明らかに物事を見ることはできなくても、明らかに物事を見られる相手に、仕方なくではなく、悦んで麗くのであれば、小事ならなんとかなるものである。
だから、小事には吉、という。
また、来往生卦法によれば、もとは天沢履から来たとする。
天沢履の卦中へ、六五の一陰が卦の外から進み上り、中を得て九二の剛に応じたのがこの火沢睽である。
天沢履のときは、柔中の徳を得ず、なおかつ二五の応も無かったが、今六五が上り往きて中徳を得て離明の主爻となり、剛中九二に応じている。
これは、六五の君主が柔中にして、九二の剛中の臣に輔(たす)けられる様子である。
とすると、大事を決行するにもよさそうではあるが、今は睽の背くときであるとともに、進み上ったのは弱い陰柔だから大事は無理だとして、小事には吉、という。



・・・・中略・・・

六五、悔亡、厥宗噬膚、往何咎、

六五(りくご)、悔(く)い亡(ほろ)ぶ、厥(そ)の宗(そう)膚(ふ)を噬(か)むがごとし、往(す)ること何(なに)の咎(とが)かあらん、

六五は柔中の徳が有り、君位に在るとしても、睽のときなので、臣民の情は背き離れる。
もとより九二の応は有るが、睽の背くのときなので、六五の君より九二に睽き、謁見をだに許さない。
これは悔いが有ることである。
しかし、物事は睽いたまま終わることはない、いつかは疑惑も解けて和親する。
そうすれば、九二は必ず応じ来て、誠忠を国家に尽くすものであり、そうなれば、睽いた悔いは亡ぶのである。
だから、悔い亡ぶ、という。
この悔亡の二字で、この爻の終始の義を提挙して示しているのであって、以下の文言は九二に対する誤解について書いている。

厥の宗とは、九二の爻を指す。
九二は、実質は臣だが、これを臣と呼ぶ時には、今は睽の時なので、その情意が疎かでよそよそしく、睽き離れることを肯定しているかのような意になる。
したがって、臣ではなく宗と呼ぶ。
宗とは、同宗の義にして親しみを専らとするの辞である。
今は睽のときなので、骨肉の親だとしても、離れ睽きやすいのであって、君臣ならばなおさらであり、だからこそ六五と九二も相睽くのである。
このような状況のときに、九二の忠臣の方から、君に和合を申し出ることは、君臣上下の礼儀もあるので、至って難しい。
だから、九二の爻辞では、主に巷に遇う、咎无し、と、難しくてもなんとか和合するきっかけを作ることを勧めているのである。
しかし、六五の君から九二の臣に和合しようと申し入れることは、君臣の礼節を逸脱することではないので、甚だ容易である。
だから、厥の宗膚を噬むがごとし、という。
膚を噬むとは、火雷噬嗑の六二の爻辞にもある言葉であり、この火沢睽の六五の爻辞にては、君臣の和合が容易なことを示す喩えである。
往るとは、為すべきことが有るという義である。
六五の君は柔中だとしても、陰弱にして、一旦の疑い睽きにより、九二剛中の大忠臣と睽き離れたわけだが、このままではいけない。
今、六五はこれを親しみ和すること、同宗の念を為して、速やかに和合し、篤く親しみ信じて、その国政を輔弼させれば、大いに為ること有るのであって、何の咎があるだろうか。
だから、往ること何の咎かあらん、という。
咎かあらん、というのは、咎があるのではなく、逆に、大いに得ることが有る、という意である。
咎无し、というよりも優れているのである。


上九━━━○
六五━ ━
九四━━━
六三━ ━
九二━━━
初九━━━

上九、睽孤、見豕負塗載鬼一車、先張之弧、後説之弧、匪寇婚媾、往遇雨則吉、

上九(じょうきゅう)、睽(そむ)きて孤(ひと)りなり、豕(いのこ)の塗(ひじりこ)を負(お)い、鬼(おに)を載(の)せること一車(いっしゃ)なるを見(み)る、先(さき)には之(これ)が弧(ゆみ)を張(は)り、後(のち)には之(これ)が弧(ゆみ)を説(はず)す、寇(あだ)するに匪(あら)ず婚媾(こんこう)せんとす、往(ゆ)きて雨(あめ)に遇(あ)えば則(すなわ)ち吉(きち)なり、

上九は六三と正応だが、睽の極に居るので、睽き離れて、その応爻を捨て、自ら孤独となる者である。
だから、睽きて孤りなり、という。
そして上九は、その睽き疑う意が甚だ盛んにして、いつしか六三を憎み見ることが、例えば汚穢(けがらわ)しい豕が、その汚穢しさの上にさらに泥塗を負っているような、不浄不潔の至極と思う。
そう思うと、睽き憎む情はさらに増長し、恐怖心さえも生じて来て、ついには六三を醜鬼のように思う。
鬼というのは、そもそも無形の者である。
それなのに、実際に存在する者と考える。
これは疑い睽く情が極まって、妄想の甚だしい様子である。
もとより鬼は、陰邪にして忌み憎むべき者である。
それが一人ならまだしも、無数無量に変現して、車に満杯に積載していると思い込むのである。
だから、豕の塗を負い、鬼を載せること一車なるを見る、という。
そして上九は、その睽き疑い忌み憎み怖れる妄念により、遂に六三を殺害しようと思い、弧=弓矢を手に取り、すぐにも六三を射ようとする。
しかし、睽の背くということは、そもそも疑念から生じているのであって、その疑惑ということも既に極まれば、豁然と解けるものである。
解ければ忽ち睽く意も止み、害念も絶して、その弓矢も射らずに捨てる。
だから、先には之が弧を張り、後には之が弧を説す、という。

要するに、今は睽の時なので上九は六三を疑い、寇仇の如くに思うが、睽くことが極まって、その疑いが解けて、よく平常心になって考えれば、六三は寇仇ではなく、そもそもは親密な者同志である。
男女で言えば、結婚相手である。
だから、寇するに匪ず婚媾せんとす、という。
上九は夫、六三は妻であり、だから婚媾という。

男女が親密になることを、天地陰陽の交わりに擬えると、それは雨である。
今、上九が六三に応じ往き、相親しく和すれば、睽の時は尽き果て、互いに安寧になる。
だから、往きて雨に遇えば、則ち吉なり、という。


・・・・・・・
・・・・・・・
抜粋終わり


イスラム国は、実は「妄想だった」ということを易は言っているかも。

そりゃ、アメリカとイスラエル謹製の、テロ集団ですから・・・

この「脅し」は、実はイスラム国からの「求愛」かもしれない。

でもイスラム国は、国家と名乗るが、実はイスラムですらなく、国家でもない。



でも、そこに住むイスラム教徒とは「仲良くなれる」とも言い得る。

変卦は

ダ為沢 


http://uqmk.blog106.fc2.com/blog-category-63.html

上記文抜粋
・・・・・・・・
兌 兌下兌上(だか だじょう)

八卦のdataku-n.gif兌(だ)を重ねた形。

兌は、悦ぶ、という意。
八卦の兌を重ねた形なので、八卦と同じ兌と名付けられた。
そもそも易は、陽を剛とし、尊いとし、陰を弱いとし、卑しいとする。
八卦の兌は、一陰が卑賤微弱であるにもかかわらず、二陽の尊貴剛健に最上位を譲られ、最上位に上げられた形である。
一般に、自分よりも偉いと思っている人から最上位を譲られて悦ばない人はいない。
だから、悦ぶという意が発生し、兌と名付けられた。

卦辞
兌、亨、利貞、

兌は、亨(とお)る、貞(ただ)しきに利(よ)ろし、

およそ天下の事は、大小となく、軽重となく、悦ぶところに至れば、その行う事は必ず亨通して進み遂げ、成功しないということはないものである。
『論語』には、これを知る者は、これを好む者に如かず、これを好む者は、これを楽しむ者に如かず、とある。
悦ぶというのは、楽しむとほぼ同じと考えてよい。
だから、兌は亨る、という。

しかしながら、その道その事を心には悦ぶとしても、未だこれを身に行わず、事業の上にも現さないときには、その成功を得ることが確実とは言えないので、元(おお)いに亨る、とはせず、単に、亨る、とだけ言ったのである。
としても、巽為風の「小しく亨る」というのに比べれば、やや優れてはいる。
そもそも八卦の次元で言えば、巽も兌も、同じく少陰の卦であるが、巽は従うであり、従うとは己を捨てて他に委ねることであり、自己より進むことの専らではない様子であり、対する兌は、自ら悦んで心より進む様子である。
したがって、巽為風の「小しく亨る」と、兌為沢の「亨る」というのは、その亨るという意味合いにも違いがあるのである。
巽の「小しく亨る」は、従えば亨る、ということであり、兌の「亨る」は、自ら悦んで進めば亨る、ということである。

さて、兌の悦ぶという道にも、正邪の別がある。
正しい道に悦ぶときには、よくその身を修め、前途は明るく広がる。
これが正しくない道に悦ぶときには、身を滅ぼし、ついには何もかも喪うことにもなろう。
言うなれば、相手を悦ばせることを悦びとするのが正しい道であって、自分が悦ぶことにだけ執着するのが、正しくない道である。
だから、貞しきに利ろし、と諭すのである。

・・・・・・中略・・・・・・

九五、孚于剥有、

九五(きゅうご)、剥(はく)に孚(まこと)あれば(あやう)きこと有(あ)り、

剥とは陰邪なるものの陽正なる者を削り落とすの義にして、ここでは上六の陰柔を指している。
もとより九五は君の位に在って、剛健中正の徳が有るとともに、上六と密比している。
その上六は陰柔不中の爻にして、不満を抱えて全卦の極にいる兌口の主であり、巧言便口を以って悦びを求めようとする者である。
これは九五の徳を輔佐する者ではない。
しかし九五は、これと陰陽密比しているので、親しみ睦もうとする。
さらには、陰陽密比しているので、九五は上六を信用し切ってしまいやすい。
とすると、その上六の陰柔のために、九五の徳は剥し尽くされるというものである。
上六の巧言佞媚を悦んで信用すれば、大変なことになり、危険である。
だから、剥に孚あればきこと有り、という。


上六━ ━○
九五━━━
九四━━━
六三━ ━
九二━━━
初九━━━

上六、引兌、

上六(じょうりく)、引(ひ)きて兌(よろこ)ぶ、

この爻は兌の悦ぶの主であるとともに、成卦の主爻にして悦ぶの卦の極に在る。
したがって、自分が悦ぶの至極なるを以って、人もまたその悦ぶ様子に感じ引かれて来たり集まり悦ぶのである。
だから、引きて兌ぶ、という。
ただし、その悦ぶところの邪と正とによって、その吉凶は異なる。
したがって、吉凶の辞は付いていないのである。

なお、この爻の義は、九五の爻にては、巧言便口を以って佞媚を薦めて君の徳を剥すところの陰邪な小人としているが、この上六の本位では兌の卦極の義を主として、悦ぶの至極としている。
このように、爻の義は、どの爻から観るかで、その爻の意味合いが変わって来る場合がときどきあるので、注意が必要である。



・・・・・・
・・・・・・・
抜粋終わり

>なお、この爻の義は、九五の爻にては、巧言便口を以って佞媚を薦めて君の徳を剥すところの陰邪な小人としているが、この上六の本位では兌の卦極の義を主として、悦ぶの至極としている。

銭と流血に喜ぶのなら、それは凶で不幸になる。

命と共存共栄を喜ぶのなら、それは日本の幸いで地球の福となる。

引いて喜ぶって、ガツガツと「自己の利益だけ」を追い求めず、ムスリムや中東の幸いに貢献すると共に至高の喜びを得られる。

てなるかな・・・


お読みくださりありがとうございます。
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